2025.06.30
「メタバースの生活者」に暮らしの豊かさを提案する。新たなフィールドで挑む価値共創

取材・執筆:小泉ちはる 編集:末吉陽子 撮影:関口佳代
「時間」と「場所」の制約を受けないビジネスを創出する
――大丸松坂屋がメタバース事業へ参入した経緯について教えてください。
大丸松坂屋 デジタル戦略推進室 DX推進部 部長 岡﨑路易氏(以下、大丸松坂屋・岡﨑):メタバース事業は、コロナ禍によりリアル店舗の営業が制限される中で、中元・歳暮ギフトをメタバース空間で販売する試みから始動しました。2年間にわたって取り組みを続け、結果を検証したところ、DX推進部に「もっとメタバースに深く関わる方法を検討するように」との指令がありました。
DX推進部のミッションは「時間と場所の制約を克服し、店舗に依存しすぎないビジネスをつくる」ことです。ゼロからイチを作り出す新規事業担当でもあるので、新たな一手として株式会社Vと協力し、VRChat対応のオリジナル3Dアバターと、アバターが着用する衣装の制作に着手することを決断しました。
DX推進部部長として新規事業開発・既存事業DXに取り組みつつ、メタバース事業において事業責任者を務める
株式会社V 代表取締役 兼CEO 藤原光汰氏(以下、V・藤原):当社は、VR上でのギフト販売の振り返り段階から関わり、3Dアバター本体と衣装の戦略立案に参加させていただきました。制作においては、コンセプトなどを両社でしっかり固めたうえで、当社がイラストレーターや3Dモデラー(立体的なモデルを制作する専門職)に打診をする形で業務を進めています。
――なぜ、3Dアバターに着目されたのでしょうか?
大丸松坂屋・岡﨑:メタバースでのギフト販売を通じて「メタバース空間で日常を営む人々が確かに存在する」と強く感じました。その気づきを起点に、どのプラットフォームがふさわしいかを検討した結果、ユーザー数の多さから「VRChat」を選定しました。
V・藤原:現在、VRChatユーザーは世界で2000万人ほど。日本にも200万人ほどいると言われていて、20代が4割、30代が3割と若年層のユーザーが中心です。会社や学校から帰宅後、夕食・入浴などを済ませ、21時から深夜までVRChatにログインし、友人と会ったり集会(コミュニティのイベント)に参加したりしているイメージです。ユーザーの2割は毎日ログインしているというデータもあります。まさに、「VRChatの中に住む」ことが当たり前のライフスタイルになっています。
株式会社Vを創業し、VRChatなどで大規模コミュニティを運営
大丸松坂屋・岡﨑:VRChatの中に住むというライフスタイルの典型例が年越しの瞬間です。メタバース上で新年を迎え、挨拶を交わす人は10万人を超えています。生活者がそこに存在する限り、その暮らしをより豊かにする提案を届けることは、百貨店の使命です。では、メタバースで暮らす人々にとって何が求められているのか。検討を重ねた結果、たどり着いたのが、アバター本体と衣装でした。
――制作開始から現在までの展開を教えてください。
V・藤原:まず、「イベントを満喫するためのきらびやかな正装」をコンセプトにアバターの制作をスタート。14名のクリエイターを起用し、2023年10月にアバター5体の販売を開始しました。
デジタル戦略推進室 DX推進部 福澤滉也氏(以下、大丸松坂屋・福澤):その後も「当社にしかできないことは何か」を模索し続けました。2024年12月からは、J.フロント リテイリング史料館に所蔵されている松坂屋コレクション(国の重要文化財を含む時代衣裳などの収集品)をもとに、メタバースのファッション文化に合わせてアレンジした3D着物や衣装の提供を開始しています。
2024年12月より提供されている3D着物には、松坂屋コレクションの衣裳を2種類ずつ衣と帯にアレンジした「はれのひStyle」と「いなせStyle」や、ロリータ、忍者をコンセプトにした「Sweet Lolita Style」「Hyper Ninja Style」がある
全国初「石見神楽」をメタバース上で本物さながらに再現
――アバターや衣装の制作経験を経て、2024年末より自治体との共創プロジェクトの第1弾として島根県江津市の伝統芸能である「石見神楽」のメタバース化に取り組まれました。その経緯についてお聞かせください。
江津市政策企画課 福山賢一氏(以下、江津市・福山):2024年12月に、江津市主催のビジネスプランコンテストをきっかけに岡﨑さんと知り合いました。「石見神楽」はすでにさまざまなプロモーションを展開していますので、岡﨑さんには新しいアプローチを相談し、翌週には「石見神楽」のメタバース化を提案していただきました。3D着物の精巧な仕上がりも拝見して、より若い世代に発信できると確信しました。
「石見神楽」で使われる着物は非常に凝ったつくりですが、着物に関する知識と3D衣装制作のノウハウを兼ね備えた大丸松坂屋であれば大丈夫だと判断し、行政内でも短期間でコンセンサスを得ることができました。伝統芸能のメタバース化は江津市にとって前例のない取り組みだったので、いま振り返ると無茶なお願いだったかもしれませんが、「5ヵ月後の大阪・関西万博で披露しましょう」と提案したのです。
江津市で創造力特区デザイナーとしてシティプロモーションに従事
――福山さんの依頼を受けた後、メタバース化に向けてどのような取り組みをされたのでしょうか?
大丸松坂屋・岡﨑:1ヵ月以内のうちに、江津市を訪れ、生の「石見神楽」を鑑賞しました。その凄まじい迫力と躍動感を再現するため、藤原さんを通じてさまざまなクリエイターにお声がけしつつ、2025年2月にモーションキャプチャーや衣装の撮影、リアルな音の収録を行いました。
今回は、「石見神楽」の演目のうち八岐大蛇(やまたのおろち)と須佐之男命(すさのおのみこと)が対峙する「大蛇」のハイライトシーンをメタバース化しました。さらに、「鐘馗(しょうき)」の演目に登場する「鐘馗」と「疫神」の衣装を3D化し、無償配布しています。
――石見神楽のメタバースは2025年5月28日にVRChat内に作られた仮想空間(ワールド)で公開。また、5月28日~6月1日は大阪・関西万博会場内EXPOメッセ「地方創生SDGsフェス」でも多くの方に体験いただきました。完成度についてはいかがでしょう。
江津市・福山:最高の出来栄えでした。特に、衣装の再現度は見事としか言いようがありません。さらに、VRChatのユーザーにより刺さるよう、エンターテイメント要素を重視して制作していただいています。たとえば、屋内で大蛇が火を噴いたり、本来大蛇の中に入って演じている役者をあえて消し、まるで本物の八岐大蛇が須佐之男命を喰らおうとしているかのように演出したりと細部にこだわっています。
石見神楽を様々なアングルから楽しめるのも、メタバースの醍醐味の一つ
YouTube「島根県江津市×大丸・松坂屋『石見神楽メタバース化プロジェクト』」
V・藤原:制作にあたり、大蛇の動きのリアルさや「石見神楽」の美しく緻密な衣装をいかに再現するかが大きな課題でしたが、実際の演者の動きを収録するなどしてそれらの課題をクリアしました。ライティングや大蛇の目の色の変化といった細かいデザインまで丁寧に作り込んでいるため、近くまで寄って見ていただいても違和感がないと思います。アバターや着物衣装の制作で蓄積したアセットがあったからこそ、「メタバースでリアルの美しさや動きを再現する」というより高度なチャレンジも実現できました。
大丸松坂屋・福澤:大阪・関西万博では、ブース内でのVR体験会の運用をDX推進部がサポートさせていただきました。接客に慣れている私たちが、「石見神楽」の歴史や概要を伝えながらお客様にVRの操作をスムーズにご案内することで、より深い理解と愛着を持って体験いただけたと思います。
伝統芸能のDX化は、地方文化の周知と継承の新しい形にも繋がっていくと感じています。本物に親しんだ地元の方でも、メタバース上で神楽を舞う自分自身の動きを見れば、「こうやって踊っているんだ」と新鮮な発見があります。そのようにして伝統を後世に伝えていくことは、DXでできる新たな貢献ではないでしょうか。
2023年メタバース事業の立ち上げに参画。現在は同事業のリーダーを務める
メタバースを舞台に、クリエイターと「感動共創」「地域共栄」を実現していく
――大丸松坂屋の取り組みとメタバースの未来について、どうお考えですか。
V・藤原:大丸松坂屋百貨店のメタバース事業はSNSのアカウントを持っており、フォロワーは1万人を超えています。懸賞や特典で獲得したフォロワーではなく、VRChatでの関わりを通じて生まれた確かなつながりです。店舗を中心に顧客との接点を持っていた大丸松坂屋ですが、バーチャル上やSNSで声をかければレスポンスが来るという状態は、未来的で理想像だと思います。
江津市・福山:今はメタバースの黎明期で、何かきっかけがあれば爆発的に拡大すると感じています。仮想空間の将来性をいち早くキャッチして企業とともに未来を作っていくことが、どの自治体でも必要になるのではないでしょうか。今回のメタバース神楽で新しい可能性を示すことができたと思います。
私は市職員ですが、東京のIT企業からの出向者でもあります。だからこそ、今回の取り組みが江津市だけの満足で終わるのではなく、全国の自治体にも広がっていくことを願っています。「うちもやりたい」と思ってもらえるような、そんな連鎖が生まれたら嬉しいです。
現在の若い世代が社会の中核を担う頃には、おそらく「メタバースのある生活が当たり前」という世界がやってきます。そのときに「どういう未来であるべきなのか」。立場や組織の垣根を越えて、皆で考えていきたいですね。
メタバースで生まれる新たな体験やつながりを育みながら、暮らしの豊かさを追求していきたいと語る
大丸松坂屋・福澤:メタバースとリアルの循環が、一つのポイントになると考えています。メタバースの本質はコミュニケーションです。リアルでの楽しい体験は、メタバースの中でもそのまま活かされていきます。仮想とリアルが循環し合うことで、メタバースは「いつでも楽しめるエンターテインメント」として成熟していくはずです。
実際に、メタバースでは、仮想空間の友人とリアルでも対面する「オフ会」の文化が盛んで、大丸松坂屋もパーティやライブなどを企画しています。われわれの目的は「リアルの店で商品を買っていただく」ではなくて、仮想でもリアルでもワクワクする体験を提供すること。その体験の導線を設定する上で、接客や催事・イベントなどを積み重ねてきた百貨店だからこそ、総合力を活かすことができると考えています。
大丸松坂屋・岡﨑:大丸松坂屋のメタバース事業を応援してくれるファンをもっと増やすと同時に、「石見神楽」のメタバース化の成功を最初のステップとし、メタバース上でのイベントやプロモーションを希望する企業や自治体へのコンサルテーションの拡大を目指します。
さらに、J.フロントリテイリングが掲げる「価値共創リテイラー」という理念(目指す姿)を新しいフィールドであるメタバースでも追及し、「感動共創」や「地域共栄」に取り組みます。
今、メタバース上で最も勢いがある「鑑賞して楽しむ」「衣装を着用して楽しむ」といったエンターテイメント要素は、私たちの掲げる「感動共創」に直結しています。また、全国各地の伝統芸能や文化とのコラボレーションを行えば、「地域共栄」にもつながります。
これまでの百貨店は、新しいファッションの提案やライフスタイルの創造など、まだ世にない価値を送り出し、お客様をリードすることで市場を牽引してきました。しかし、時代が変化する中で、お客様と一緒に価値を共創することが求められています。特に、メタバースにはお客様と双方向のコミュニケーションをしやすい環境があるので、その自由度を活かしながら、共感を生み出すことができる魅力的な場でもあります。
百貨店としてのDNAを継承しながら、新世代のクリエイターの皆様とともに、メタバース上に新たな時代の価値共創プラットフォームを築いていきたいです。新しい生活に彩りを添えるとともに、お客様とともに価値を創り続ける挑戦を重ねていきます。
デジタルとリアル、伝統と革新、企業と地域、そして生活者とクリエイター、それらすべてをつなぐ「共創」の思想を体現するため、メタバースという新たなフィールドに挑み続けたいと意欲を燃やす
PROFILE
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岡﨑 路易
大丸松坂屋百貨店 デジタル戦略推進室 DX推進部 部長
2004年株式会社大丸入社。店舗売場、財務部、経営企画およびM&Aチームを経験。2018年、大手IT企業へ入社。2020年、株式会社 大丸松坂屋百貨店へ再入社。DX推進部部長として新規事業開発・既存事業DXに取り組む。メタバース事業では、事業責任者としてハンズオンで事業運営に携わっている。
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福澤 滉也
大丸松坂屋百貨店 デジタル戦略推進室 DX推進部 スタッフ
2019年株式会社 大丸松坂屋百貨店入社。大丸神戸店に配属後、接客販売やお得意様営業を担当。2021年よりJ. フロント リテイリンググループの新規事業である保育事業会社に出向し、マーケティングやグループシナジー創出などを通して新規事業推進に携わる。2023年に大丸松坂屋百貨店に帰任後、メタバース事業に立ち上げ時より参画。現在はメタバース事業のリーダーを務める。
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藤原 光汰
株式会社V 代表取締役 兼 CEO
AIレシピ提案アプリを開発するスタートアップを共同創業。その後、株式会社バンクにて即時買取アプリ「CASH」と後払い旅行サービス「TRAVEL Now」の立ち上げを担当。2019年にメタバース支援の株式会社Vを創業し、VRChat・Robloxで国内最大級のコミュニティを運営。2024年9月にソニーグループ/スクウェア・エニックス/伊藤忠商事等から資金調達を実施。メタバース/XR領域で事業拡大中。
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福山 賢一
島根県江津市 政策企画課 創造力特区デザイナー
東京のIT会社(株)ABIでネットワークエンジニア(プロジェクトマネージャ)として勤めていたが、会社の新規事業である地域活性事業に立候補。2023年6月から企業版ふるさと納税の制度を活用し江津市に出向。同市の創造力特区デザイナーの役職を拝命し、シティプロモーション事業に携わっている。